2005年 12月 10日
デジタル加工の是非について
匠さんの記事の中で、いわゆるデジタルの写真になってのレタッチや後加工の問題について触れている。言うまでもなくソフト等での加工、修正について否定的な考え方についてである。これに関しては、少し自分の思うことを考えてみたい。




写真と対比するために、他のものを例に出してみよう。

文章であれば、報道記事に事実のないことを書いてはいけないし、評論であれば事実の部分と、論評の部分が整理されているとわかりやすい。小説に関して言えば、全て事実とは何ら関係ないフィクションでも良いし、また臨場感を持たせるために敢えて実際にあった事実を盛り込むこともあれば、歴史小説のように実際にあった史実、人物を扱いながらフィクションとして構成していくものもある。そしてこれらがそれぞれ、そういうものとして受け入れられている。

新聞社の報道記事にねつ造があれば許されないが、例えば小説に作り話や歴史小説に新たな解釈が加わったからと言って否定されるわけではない。

では、写真と良く比較される絵ではどうだろうか。絵の場合何でもありの様に思えるが、絵でも例えば、写真撮影が禁じられている公判中の裁判の挿絵、また観察日記等、絵の巧拙はあってもそこにあるもの以外を足したり、創作してはいけないものはある。

究極は、会話であろう。これこそいかようにでもしゃべれるが、例えば裁判上の証言等は証拠にも採用される重みを持つ。酒の上での若い時の自慢話などは、いかに本人が真剣に語っても眉唾で聞く時もある。また、相手の話がほらであったとしても、それで糾弾されることはないだろう。(笑)要は、伝える手段でなく、その内容で写真で言うところの加工が許されるかどうかが決まっているのである。

そう考えると、報道記録写真の様な極端なものでなくてもそこには自ずと許されるべきものそうでないものはわかるのではないだろうか。
例えば、自己表現としての作品は後加工も含めもてる技量を尽くしてベストを尽くすというのは当たり前の話しである。そういう写真芸術的なコンテストでデジタル加工不可というのは私から言えばナンセンスな話しだ。

また、細かいことを言えばレンズの描写の比較の為の画像であれば、手を加えない方が良いだろう。
問題は、何故写真だけ例えば私ですら作品として作る場合でもデジタル加工(創意工夫をこらすこと)に最初違和感を覚えたのだろうか。

私論であるが、
1.作り手の方の意識の問題。
 極論すれば、モノクロ写真を除いてカラー写真を一般人が後加工や、モンタージュを作ること(ただするだけでなく、精緻に本物以上にする価値があるほどのものを作ること)はデジタル化されるまで、絵画や文章でそれを行うことを考えるととても敷居が高かったのである。
 逆に言うと、文章や会話は容易に創作出来るだからこそ、長い歴史の中で、或いは自分が生まれてきてからもその使い方について訓練を受けた。こういうときに嘘をついてはいけない。あるいは嘘も方便から、書く時の洒落た言い回し等だ。そしてそれを聞いたり、読む方法も訓練を受けている。日々の会話、学生時代の読解問題からさまざまだ。

 デジタルになって、文章で言うちょっとした挿話や、洒落た言い回しなんていうのをどんどん写真も付け加えたり、工夫出来るようになった。今まではそういうのを強い自制心で押さえていたのではなく出来なくても出来なかったのだ。かくして表現する方はそれらの新しい手法を使い新たな表現を求めるのは自然なことである。事実、デジタルで行う、レタッチの手法や、モンタージュ等の表現自体は昔からあるものである。

 若い人たちを中心に、デジタルに移行し新しく拡がった表現の幅を写真の作る側がどんどん取り入れる時に、今遅れているのは私も含めてこれらの写真と、従来の写真を並べて純粋に作品としてどれが良いのだろうという目では無いだろうか?

 ひどく、おじさん的な例になったが、例えば今まですっぴんの女性だけでどの女性が美人かと判断していたのが、お化粧OKになり、この子はすっぴんだけど、この飾りっ気のないところがいいし、この子は明らかに化粧上手なんだけどあそこまで決められるとぐっときちゃうなあ、で、どっちがいいんだ~みたいな感じである。(笑)

 ここがこのデジタル時代になって、まだ曖昧模糊としているのではと思う。でここを下手に決めつけずに段々みんなでああだこうだで新しい目線みたいなものが決まってくるだろうし、自分自身もこれから見つけていきたいと思う。何故なら、私も、これを読んでいる方々も写真の良いところは、自分が鑑賞者でもあり、また作者になれるということだからだ。

 ただ、これは更に突き詰めると、最後は画像という問題に至ると思う。少なくともデジタル上においては、絵も写真もデジタルの画像というものでは等価値になると思う。異種格闘技の様なものだ。混血もある。それぞれ、油絵、版画、写真(この場合では銀塩プリント)等実際に紙や布に、固着されたそれぞれ固有の物質としてのものは今後も粋のこり続けるであろう。

しかし、ひとたびデジタルの画像、スクリーンに映し出される画像、或いは全てデジタル化された状態ではそれはそれぞれ出自は違っては、デジタルな画像データと言うことで等価になりデジタル上の評価、作品の優劣においてはその出自はあまり意味を持たないと言うところまでは行くのが筋では無いかなと言う気がする。

DSLR等のハードも今はデジタルと言いながら、感光部がフィルムからデジタルになったの延長線上に語れる程度の進歩だが、(ISOの自由度等徐々にデジタル固有のものが出てきてはいる)これから何れハードもデジタルでしか出来なかった機能を提供してくるだろう。
ソフトウェアはもう殆ど従来からあった色々な加工技術を、簡便に提供出来る状態に来ているような気がする。

あまりの急激な変化にこれを使う側が、その使い方、使う時の(倫理面を含めての)考え方、また出てきたものの理解、鑑賞法がついて行っていないと言うのが混乱の原因である。
何のことはない、私もカメラや、ソフトの使い勝手、機能についてあれこれ不満を言うが、実は一番進歩がおくれているのは自分自身の意識だ。まあ、私のこの頭だけは新製品に切り替えるというわけに行かないので(笑)、変えていくしかない。

2.を書こうと思ったがやめた。2は言ってみれば、そもそも写真に関して言えばそういう手を加えないところにこそ、写真としての価値があり、芸術としての意義があるのだという考え方である。もし、これがそうなら、デジタル加工するということはそれがいけないのでなくそうすることが芸術としての写真の価値を下げるだけだと言うことになり、反論の余地がなくなるからである。

これに関しては、もし私と同じように興味のある方がいらっしゃれば、書いてみたい。
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by Hiro_Sakae | 2005-12-10 21:07 | その他写真関連


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