2006年 01月 02日
オリンパス、アマチュア、デジタル加工 脈絡無く、、
 日頃は、ズイコーフォーサーズと言うことで、どうしてもフォーサーズの動向やフォーサーズに絡んでの話しが中心になる。そういう趣旨のブログなので当たり前の話しだが、新年でもありそういうのから少し離れて考えている事を脈絡無く書いてみる。
 もし、興味があればいささか、長いが読んで頂ければ幸いである。



1.オリンパスとアマチュア的なもの

 先ずは、ここでもアップしたがE-500の発表前に米谷氏を囲んだ座談会に参加することが出来、その際に改めて感じたことだ。氏は常々「カメラは、写真を撮るための道具。どんな写真を撮るか、良い写真を撮るためには、」というのが無いと意味が無いという事を仰っている。これは、技術者に対しては、今までのカメラに無い新しい機能、或いは特徴を加えることを要求すると共に、我々ユーザーにとっては、「その新しい機能、特徴はあなたの写真に何かプラスアルファをもたらすのか?」或いは、「あなたの写真撮影の可能性を広げるためには何の機能が必要なのか」と言うことを常に考えているか?と言うのを問いかけられているような気がした。

 そして、ここでいう米谷氏の言う「あなた」とは、決してプロのみを意識したものでなく、プロアマ問わず、写真を愛する人たち=ユーザーに向けられている。事実、OMの基本思想である小型軽量且つ静音に関して言えばこれは、写真を愛好する者にとっては極めて好ましいものである。しかし、職業写真家となれば、小型軽量よりも先ず、堅牢性やメンテナンス性、或いはとにかく画質優先と言ったものが来るであろう。どこかへ撮影行に行くとなれば全て自分で持たなければいけないアマチュアと、いざとなれば助手も居るという方では自ずとニーズも違ってくると思う。OM,Pen何れも今は名機の一つとしての地位を得ており、その時代のオリンパスのフラッグシップであり実際にプロで愛用されている方も少なからずいらっしゃるが、一方で他社のフラッグシップ機から漂ういわゆるお仕事の「プロ」と言う匂いが希薄である。これには、米谷氏自身、アマチュア写真家として活躍されてライカIIIfを理想とされたアマチュアリズムのしっぽを引きずっている部分が影響しているような気がする。

 次に、これはオリンパスの中間決算のプレゼンテーションでのオリンパスイメージングでの社長のメッセージだ。
 中間決算で、今後のデジタルカメラの需要予測を説明される件があった。現状の推移を説明し、オリンパスとしては業界で予測されている数字の中で一番保守的な数字を出されたこと、これはこの数字の伸びでもオリンパスが黒字を図れるように計画していることまた、ネガティブに見る要因としては、カメラ付き携帯電話の普及や、ビデオ等を説明された。
 私が記憶に残ったのはその後、続けて「尤も、こういう先(のニーズ)を予測するとなると、そもそもカメラというものがどうなるかという話しになるのですが、、」と来て「カメラ(で撮る)と言うか、人がさまざまなパーソナルな記憶を写真というものに残す、撮るという欲求(ニーズ)というものはこれからも無くならないと思う」(略)「そういうものに、当社としてはコミットしていきたい」という類の発言があったことだ。
 言葉のあやかもしれないが、オリンパスがカメラというものの需要がこれからも続き、しかしてこれを続けていこうという理由を、それを「人がパーソナルな記憶を残すための道具」と言い切ったところにオリンパスらしさを感じさせる。どんなに精緻な需要予測よりも、カメラをそう言う道具だと思って、「うちがやめるわけにいかんよなあ」と言うウェットな部分を持ち続けている限りオリンパスは(キャノン、ニコンほどはメジャーになれなくても)引き続き我らの良き友としてカメラを作り続けてくれるかなと思ったものだ。

 最後は、これらの今のカメラに続くオリンパスカメラ部門の創始者で、学生時代の米谷氏の才能を見出し、入社後も良き理解者であった、桜井栄一氏である。この方は、オリンパスの役員を務め、オリンパス商事の副社長も務められた一方で、若い頃から当時芸術写真として起こったベス単派の主流光大派の主要写真家として終生活動され何冊かの写真集を残された。正にアマチュア写真家を極めるのを地でいった様な人である。(シャープで定評なズイコーレンズの生みの親の一人であり、ご自身ズイコーをこよなく愛された方が、一方でベス単写真の大御所というのも不思議な気がする。)

 私は、オリンパスの桜井氏というのは技術者としての氏の著作に目を通した機会はあったが最近ひょんなことで氏が写真家として書かれた文章をネットで読む機会を得た。機関誌の「光大」というものに氏が執筆している中で「静写」というものに触れられている。昭和54,55年頃に当時篠山紀信氏が「激写」という言葉を使われていたものに対置して使われたものだ。

 当時出ていた、いわゆる写真のスクープ雑誌や、写真集での過激な表現やその時々の流行、はやりといったものの振れとそれにたいするプロとアマの違いに触れられた上で、「私達は幸いに、静かに自然を見つめることに専念しておりますので」、、「その点大いに感謝すべきだと思います.プロとなると、仕事の上でこの渦の避けられない場合もありましょう.心掛け次第でその心配の無いのは私達アマチュアの特権であります。」と結んでいる。こういう、趣をもってまた自らその信念をもったかたが、カメラ部門を起こし、その思想の継承者(米谷氏)を自らスカウトし綿々と今に至るオリンパスの思想の礎を気づかれたのかと改めて感じたものだ。

2.アマチュアから転じて、またデジタル加工について

 さて、ここで話題を転じてこの写真におけるアマチュアというものを考えてみるとかつてまだ職業写真家が写真館での肖像写真、観光写真、ごく少数の報道写真家を除いて存在しない時代にアマチュアが写真界を引っ張っていた時代があった。そのピークが日本では1930年代のいわゆる新興写真時代と呼ばれる時期であろう。

 関西の写真倶楽部を中心にそれまで芸術写真という名の下に絵画の模倣(尤も日本においてはこの絵画=洋画自体が新奇なものであったのではあるが)から脱し、今に続くストレート写真から現在フォトショップ等で使われるレタッチの殆ど全ての技法がこの当時フィルム上で開発された。またフォノグラムと言ったフィルム特有の技法もあり、当時このレンズを通して得た光による芸術なるものをあらゆる方面からどん欲に昇華させていた写真の「幸せな時代」があったのだ。(ただ、戦時中のプロパガンダに組み込まれた報道写真(土門拳、木村伊兵衛等)を除けばほとんどが戦後に続かず断絶した。この系統に近いものとしては植田正治氏ぐらいだろうか。)

 興味深いのは、この写真の表現としてのフロンティアが大きく拡大し、成果を上げたこの時代が、ライカ、ローライを初めとするそれまでの木製から、持ち運び可能なドイツ製の小型金属カメラが続々と登場し、併せて高性能なフィルムが出てカメラ自身が飛躍的に性能が向上した時代と重なる点である。高速シャッターでのスナップショット、ブレ表現、ぼけ、レンズ交換によるバースぺくティブ他、「正にそこにあるものを写していながら、肉眼では見えない、感じ得ないレンズ特有の世界」が新しく開けたのである。そして当時、これをそのままもしくは更に拡大、利用、昇華する形で、続々と世界が開けていったような気がする。ちなみに、私が、ここに書いた様な世界を知るきっかけをつくってくれたのは、飯沢耕太郎氏の「デジグラフィ」という本である。

 さて、今新たにフィルムからデジタルへと大きくカメラが変化しつつある時代に、(これは、ハードのカメラだけでなく、フォトショップ等のソフトも含めた環境として)、今何が変わっていくのかと言うところである。ここでよく出てくるアマ相手のコンテスト等でデジタル加工不可とか、デジタルは加工出来るので云々という話しが、カメラ各社の新製品がデジタルに移行している今ですら根強く残っているのがこれでいいのかと言う思いである。また、本来仕事や、しがらみからフリーであるはずのアマチュアフォトグラファー層の方(特に、経験豊かでその土地等で指導的立場となるべき上級者と呼ばれる方々)が一番保守的では無いかと言うところが私としては、最近きになる。

 デジタル加工が、いかんという人は例えば仲井安治のメーデーのスナップは認めても、フォノグラムは写真として認めないのだろうか?中山岩太が今出てきてあの秀逸なフォトモンタージュの写真を投稿してきたら「これは写真じゃない」と認めないのだろうか?
 或いは、カラーのまま作画上どうしても不必要なもの(はなびらの上の点の様なゴミ)を消すのがデジタル加工で不可なら、単純にモノクロ化するのはどうしてOKなんだろう?表現という意味では、モノクロ化する方がオリジナルとの違いという意味では大きな変化がある。

 かつては、写真というカメラを媒体にして造り上げる写真というものが、全て想像で造り上げる絵画よりも優れているし、またこのカメラの持つ機能、必然の偶然性(人間の想像では計り知れないあるもの)と言った写真は正に写真であるという力強さが合ったような気がする。当時は写真と絵(グラフィック的な物)を同じ土俵で比較することが困難であったが、今正にデジタルにして画像という形でそれが比較しうる時代になったのである。

 ならばである。何も写真の側から「デジタル加工不可」などと言う壁を作るのはいささか弱気ではないかと思うのである。その画像の中に写真=「カメラ(レンズ)を通してその場の光で描画したもの」が含まれていれば、広く受け入れれば良いのではないだろうか?受け入れた結果、結局人があれこれ手を入れたものの方が、逆に手を入れれば入れるほど素晴らしい作品になると言うことであれば、(本来の)写真というものはその程度のものであったと言うことになろうし、むしろ写真的要素を色濃く残したものこそ、他のグラフィックでは作り得ない独特の表現、思いつかないような画像が生まれるというのであれば、それこそ、写真の写真たる所以と言え、写真的表現を突き詰めればすなわち、ストレートに近いほど素晴らしいと言えるのではないかと思うのである。

 私自身は、上の論で行けば後者すなわち、よほど恵まれた才能の持ち主でない限り私の頭の中で考える素晴らしいものなどはたかが知れていて、カメラと共に現実の中から切り出す画像の方が素晴らしく、また私のセンスで下手にいじるればいじるほどその生の良さが損なわれると思っている。保守的な考えともし違うとすれば、もし私が天変地異的に才能が開花し私のセンスでばんばん加工した方がよりすぐれた画像になると確信が持てるようになれば、躊躇無くいじりまくるだろう。しかし、これとて、またその先を行くような偶然の出会いには負けてしまうかもしれないというのが、私の考えだ。(だから、カメラを持って飽きずに散歩するわけであるが(笑))

 私の投稿するデジタルカメラ系の雑誌を除けば、今アマが投稿出来るメジャー雑誌でデジタル画像での投稿を受け付けるところすら数えるほどしか無い。それ以外は殆どがカラープリントと同じプリントしての応募であり、デジタルプリントは可であるが、デジタル加工は不可というものが多い。アマでしこしこやっている者として、そしてデジタルの可能性に期待している身としては、例え自分自身にはその腕がないにしても、こういうところのデジタル加工縛りをはずし、出来ればデジタル画像そのもので投稿出来る場をどんどん増やしてもらいたい。そして、そこに登場してくる同じ立場の人たちがどんな作品を作ってくるのかを見てみたい。この縛りを無くしたら、どんな作品が出てくるのか、それともそんな中でもやはりストレートフォトが一番なのか、想像も付かないものが出てくるのか。私ごときが書くのは僭越を承知で言えば、この縛りの存在は既得権益的匂い、もしくは選者の方の怠慢の様な気がする。

 これからも、今年も多分カメラはまた一段と進化していくのだろう。その時に表現の拡大と言った真面目な進化をどれぐらいするかは未知数であるが、それ以前に最近の急激なデジタルカメラの進化にユーザーや、それを取り巻く環境がついていけているのかと言う気がするのである。私は個人的には、デジタル加工不可というのが未だに消えないアマ向けフォトコンの考え方と、レガシーなマウントと殊更35ミリフルサイズに固執しまたそれの実現のために貴重な技術的リソースを裂かざるを得ない状況に同じ匂いを感じる時がある。

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 いささか、脱線かつ脈絡の無さが過ぎたようである。そんなこんなない混ぜの中で私は私なりに出来ることから少しずつ、またこれらのもやもやの中でフォーサーズを選んで良かったし、是非育っていってもらいたいと今年も思うのである。それの結果が、この代わり映えのせぬお散歩道での、これまた代わり映えのせぬ写真かと言われると返す言葉も無いのだが(笑)
 現実と、腕が追いついていないのは認識している。いつまでも言っているだけかも知れないが、気長にのんびりと少しずつでもやっていけるのもまたアマの特権だと思う。


 
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by Hiro_Sakae | 2006-01-02 00:40 | その他写真関連


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