2006年 03月 12日
鏡と窓の話し と ある要望への回答
私が、ちょこちょこおじゃまし、こちらにも貴重なコメントを頂く匠さんのブログの【玄人専科】として、写真における鏡派と窓派の話しが出ていた。本筋とは離れるが、思うことをあれこれ書いてみたい。



 写真に興味があり、歴史について興味を持ったことがある人なら、「鏡派」「窓派」と言うのを聞いたことがあるかも知れない。匠さんは、厳しい人なので(笑)、この辺の所を端折られてしまっているが、何ですかそれ?と言う人もいらっしゃるかもしれないので、少し触れておくことにする。

 現代写真へのターニングポイントの時期に重要な位置づけを占めた米国を代表する写真家にダイアン・アーバスがいる。彼女が亡くなった翌年の1972年に、MOMA(ニューヨーク近代美術館)は大規模な追悼展を行ったが、その後1978年に彼女の遺作も含めた形である展覧会が大々的に催された。その展覧会が「鏡と窓 1960年以降のアメリカの現代写真」展である。

 ここでは、写真家自身が内包する視覚表現を表す「鏡派」と外部世界の現実をとらえた「窓派」という切り分けを提示した。また、同展覧会の序文の結び目は「鏡でも、窓でも、つまるところ写真の本質は一体何なのか?」という事で終えている。この後、この鏡と窓というのは写真の本質を解く上でのキーワードとなったと言う感じである。

 匠さんの記事の方がわかりやすいかもしれないが、ある写真を撮ろうと思った時にそれはクールに外部の世界を切り取っているのか、或いは写真家の求めるイメージ、メッセージがありその具現化としての、写真であるのかと言ったところだろうか。

 勿論、これに関しては、大方の人が感じるとおり、これを意識して写真を撮るわけでもなく、またこれらの比重が偏ることがあっても、特に私の様なアマチュアが必要に迫られるでもなく撮っている写真などはこれらが曖昧且つ、渾然一体となっていると思うからだ。実際、現代に至る写真の発展の中でも写真の本質問題が解決したわけでもなく、むしろデジタルへの移行等表現範囲の拡大もありますます、混沌としながら膨張していると言う感じであろう。

 私自身は、この鏡派-外の世界、窓派ー心の世界を、鏡派-客観的なるもの、窓派-主観的なるものの様に対置させたりも出来ると思うし、そう置き換えると、これは1960年代に至る前に、例えば35ミリカメラの登場により飛躍的にフィールドの拡大した1920年代末から勃興した新興写真運動時代にもあった話しである。当時、報道写真と、新興写真が勃興したが、新興写真は結局日本の場合戦争で断絶してしまった。(この辺も書き出すと長くなるのでここでは略)

 写真というものと他のアートを比べた場合に、(例えば今の私を考えた場合)カメラとPCが無ければ手も足も出ない状態になると言うところが違う。また、それが極端に言えばやらせであれ、何であれ、レンズの前に撮影するものを用意しないと話しにならない。そう言う意味では、念写か、100%作り込まない限り、全く「鏡」的要素を排した写真はあり得ない。
 逆に、全く偶然で且つ定時撮影等機械任せにしない限り、(すなわち、例えそれは客観的な事実のみでも、それを写そうと思った意志、現実から切り出したセンスを排除しない限り)100%「窓」的要素を排したした写真も困難であるのだ。

 では、100%主観を排した写真、100%客観を排した写真と言うものはどうなんだという話しである。これらも、当然評価されている。しかし、主観を排した(正確には排したかの様な)写真や全て主観で造り上げた写真で評価を受けるためには、前者は極めてストイックな忍耐力が、後者はそれこそ恵まれた才能を持った何れもごく一握りの人に許される、もしくはなしえる事であると思う。

 さて、そうは言いながらも、例えばこの私の様にそのような才能にも恵まれず平凡に日々の生活を営んでいる者でも、その中で写真を撮り、ある時は驚き、落ち込んだり、でも総じて楽しい感じを味わえている。また、練習すればもっと上手くなれるかも知れないなどという希望すら持っている。何故だろう?それは、一言で言えば、この写真は私一人が作るのではなく、カメラという相棒と共に作るのだと思っているからである。私には、「お前の理想のイメージを作ってやるからそれをばんばん撮れ」と言われても、私の理想のイメージなどはすぐ枯渇して、マンネリに陥ってしまうだろう。

 毎日、お散歩で、「おおっ」と思って撮影をしてみたものの、帰ってきてがっかりと言うのは良くあることであるが、この現実を写し取る時の、揺らぎや、逆に見た目以上に撮影して画像として見て初めて感じるもの、これらが、辛うじて、私がマンネリにならず、「今度はまたいいものが見つかるかも」とわずかな希望をつなげる糧になるのだ。(その前に、そういうシーンを切り取ろうと思う自分の「窓」の部分が大事なのだが、そこは突き詰めても暗くなるのでここでは触れない(笑))

 そして、ある時は私の思惑があたり、ある時はカメラが切り取って新たに見せてくれたものに感謝し、そうしてうまくいけば、また私のお散歩する時に探してみるポケットが一つ増え、或いは一つ捨てという繰り返しをしているわけである。

 ある人から、「もう少し、写真だけのブログとか、カメラだけのブログとかに整理してみてはどうか」と言うのを指摘を受けた。しかし、上に書いた様な意味で、私にはカメラは単に写真を写す道具と思えないところがあるのだ。それは、ハードとしての部分から、私を「その気にさせる」というソフト(単なるミーハー?)の部分まで含めて、私とカメラが揃って出来上がりという感じだ。従って、私にとってはカメラへの執着、知識の習得はすなわち、よりよい写真を撮るためでもあるし、(時には理解不能なものもあるが、)色々な写真を見るのも、またこれを撮りたい、撮るためにはとまた相棒を考えると言う点で渾然一体なのである。不可分一体と言って良いかも知れない。しかして、このブログのカメラの与太話から、こういった話し、写真のアップから特許話、うわさ話の類までごちゃごちゃの様態そのものが、私の心持ちであると言っても良い。どれが欠けても、写真の撮影に何らかの(心理的なものも含め)影響があるかも知れないし、写真を撮る興味の喪失は、カメラにこだわる理由自体の喪失を意味する。

 結局、うだうだーっと、書いてしまったが、上記のブログを何とかしたら?と言う話しが重なったために、この何とかしたら?というのを何とか説明出来ないかと思ってきた時に、匠さんの興味深い話しがあったので、これに対する感想と、何とか出来ないかの回答を書かせてもらった次第である。

 ただ、このように書きながらも、「要は、カメラ好きで写真好きのただのおっさん」と言う所に収斂されるのでは?と言う思いに反論する言葉が自分自身思いつかない(笑)。実際そうである。でも、これが結構心地よいものである。と言うわけで、これからもこのブログはこんな感じで行きますので、宜しくお願いします。
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by Hiro_Sakae | 2006-03-12 20:05 | 雑記諸々


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