2006年 10月 13日
オリのフォトストーリーと、動画と静止画
オリファンだと、オリンパスのズイコークラブのHPをご存じだろう。読み物の連載コーナーもあり、米谷さんが連載されている「デベロッパーズスピリッツ」などは読んでいる人も多いかもしれない。

そして、このオリのファンクラブであるズイコークラブでもう一つデジタル専用のE-systemを出しているオリンパスらしい、これからのデジタルを見据えた写真表現等を二つのコーナーで連載しているフォトストーリーというコーナーがある。




写真家の児島昭雄氏、並びに矢部國俊氏をそれぞれナビゲーターとして、前者は「今日も写真談義」として、アマ写真家との対談で写真表現等について、後者は毎回プロの写真家、クリエイターを招きデジタル時代の今後についてずばり「写真表現はどう変化するのか」というタイトルで続けられているものである。

各社公式のユーザーズクラブサイトがあるが、会員外も広く読めるスペースでデジタルでの表現等に対してのいわば青臭い連載をしているのはオリンパスだけでは無いかと思う。(まあそれを言えば米谷さんの様な設計者自身の連載というのもズイコークラブサイトならではと思う。)

さて、下のTechOnに絡む記事で動画と静止画の件について書いたら思ったより反応があった。そして、この件で上記の連載の中から思い出したことがある。
「写真表現はどう変化するのか」の連載の5回目で映像作家でもあり写真家でもある西宮氏の対談記事である。

記事自体は、これからのデジタルの表現についての幅広い対談となっているが、その中で、最後の段落の中で、写真をアートたらしめることに関してそれに対峙する映画との表現との違いでこういう発言をされている。
「具体的にいうと、AのカットとBのカットをつないで「ある感性」を表現したいと思わないと、映画は成立しないんだ。「ある感性」というのは人間の感性だからアナログだよね。偶然それを生んだりはできないからね。

だからもう徹底的に自分との対話が必要であって、今までに得たエクスペリアンスの積み重ねによる自分を、第三者にどう伝えていくか、というアナログな編集作業が不可欠なわけ。けれども写真には編集がない。だから写真自体には説得力がないんだ。 」(上記リンク先から引用)

そして、更にこう括っている。これも長いがそのまま引用してみる。

「どう努力しても、写真で自分の思ったイメージを伝えることはできない。近似値は伝えられるけど。ところが映画は、必ず自分の思うところに引っ張り込めるんだ。複数の映像を編集していけばね。文章と同じだよ。映像の積み重ね、時間を積み重ねていくことによって、誘導できるわけ。

 ところが写真は、ある瞬間にある感性をもってして、その時間軸を止めるわけだよな。写真の場合は、「どうフレーミングするか、どう切り取るか」が自分の感性であり思想。その瞬間、自分の思想は自分では切り取れる。ところが、これがプリントされて二次元になったとき、これは動かないわけだから、第三者の前にポンと置いたら、主体性は第三者に移行するわけよ。撮った自分と見てる人間で、完全に主体性が変わるわけだ。そして、その見てる人の経験と体質によって作品が理解される。だから写真には説得力がない。

だから、学生たちにも「自分の作品で今伝えたいものをわかってもらえるように、ものすごく神経を使え」と言ってるの。写真というメディアは、ものすごく多様な神経を使って、自分と客観との間を往復しながら制作しなきゃいけないんだ。」(上記リンク先から引用)

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動画の中の静止画は、動画として一つの意志、表現を固まりとして表現するものの中のあくまで一つのパーツであると言うことだ。勿論それぞれ一つ一つは切り出せば静止画ではあるが、それひとつ切り出した時に一つの表現が完結するものでなく、それらを一体としての動画にして初めて、完結するものである。従ってその中のキーになる静止画(カット)が厳密に意図されたものだとしても、それはあくまで構成パーツ、表現としては完結しないものである。

一方の写真は、西宮氏が言うように、表現として「説得力(同じ事を感じさせることの出来る伝播力の様なものだろうか)」は動画に対し欠けるかもしれないが、であればこそ、その一枚に「ものすごく神経を使え」ということになっている。動画では静止画は一つの表現を完結するためのパーツであるが、写真においては、その静止画がパーツでなく一つの表現として完結しなければいけないのである。

さて、ここで下の記事の様な動画撮影をし、そこから静止画を切り出すというのは、この一つの完結した表現としての写真を作成する技法として、有効かという問題が出てくるのである。
この問題を曖昧にするのは、
例えば、将来秒30コマの高速連写で撮影した静止画群から任意の一つをピックアップするのと、秒60フレームの動画像から切り出す場合である。曖昧な領域が横たわるのである。極端に言えば動画のフレームと、連写のコマ数が同じであればどうかという問題だろう。

ここで、話を進める前にここでは例えば報道用途であるとか、医療用途等の議論は省略する。あくまで、そういう実用、業務用ではなく表現として映画(動画)に対比する写真という意味で進めたい。

結論から言うと、結局意識の問題であろう(笑)
その撮影所作が、そもそも動画撮影をおこなっているのか、そもそも一枚で完結する写真撮影を狙っているのか。それによって使い方が変わってくると思うのである。動画としてのおもしろさ、興味で撮影を行う過程の中で作られる静止画群と、あくまで一枚のベストショットを狙うあるいはイメージしている中での連写から出てくる静止画群はやはり違いが出てくると思うからだ。

「わかった、では、それは撮影者側のメンタルな部分であってハードの部分は同じになるね」と言う議論があるかもしれない。しかし、ベストの静止画を撮れる確率を上げるために必要な連写コマ数と、高精細静止画を吐き出すために必要なフレーム数は違う。そもそも、動画から高精細静止画を吐き出すための補間技術等は不要のものである。どんなカメラでもコストというものがあるので、いらないものは省いてくれた方がよい。

従って、私は将来的に動画撮影がフォーサーズで出来るようになったとしても、それは
・カメラ機能に、動画撮影機能が付加されたもので
・静止画撮影はカメラ機能、動画撮影はビデオ機能が使われると言う形で、
・どちらの作画を意図しているかに関係なくだらだらーっと動画が撮影されて
・その中から、動画や、静止画が作られる
と言った使われ方、あるいはそういう機能の統合の仕方は意識の面でもそぐわないと思う。意識とそぐわないハードは使い勝手が悪い。
尤も、動画撮影で撮った中から静止画で切り取れるというのはあるかもしれない。しかしそれはわざわざ一眼レフを使って意図してとった静止画とは目的が違う類のものだと思うのだ。

だらだら素人が書いてしまった。
こんなものは考えてもしょうがないし、考えて写真がうまくなるわけでもない。
しかし、フルタイムライブビューもあれを三脚を使わずに一脚と手持ちでビューB拡大をしようと思うと、独特のホールディングを要求される。またフレーミングの自由度等が知らず知らずのうちに意識を変えることもある。

言いたいのは、今はようやく緒に付いたE-systemのデジタル専用システムとしての発展、進化が今後進んでいき、今まで無かった新しい機能が出てくるにつれ、ユーザー側も写真を撮る意識、考え方、スタイルに関して劇的に、あるいは徐々に変容していく部分、しなくてはいけない部分が出てくるのではと思ったからだ。

銀塩の延長でなく、DSLRにふさわしいシステムとしてのハード面をオリフォーサーズに夢見るのなら、それは同時にそれを使いこなすソフト面でも何らかの変化、進化があるのだろう。そして、ハード面はメーカーが主体的に用意するものであるならば、このソフト面を主体的に対応させていくのは他ならぬ、ユーザーサイドだろう。第二章、第三章とE-systemが進化するとして、それを心底使いこなすには、ユーザー側も第二章、第三章と意識の変化が起きるのかもしれない。自分がどう変わるのか、あるいはついていけなくなるのか、、
ハードの進化の楽しみの裏返しの楽しみ(不安)でもあるだろう。
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by hiro_sakae | 2006-10-13 00:23 | その他写真関連


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