2007年 09月 24日
自分の写真再考
  このブログを始めて7ヶ月ほど経った頃。まだアクセス数も今とは比較にならないほど少なかった頃だ。数少ないフィルム時代の写真をアップしたついでに、
「意外に少ない? 本当の自分の写真、今回思ったこと」と言う雑文を書いた。今回花折り記事等を書いてコメントを読みながらこれを思い出し、じゃあ今のHiroはどう思って写真を撮っているのかを書いてみたい。(ちょっとズイこれの主題とははずれてしまいますが、ご容赦を、、よければ前回の雑文も読んで頂ければ、、)





 過去の文章でも何度か書いたが私は30になる頃に一度趣味の写真をやめその際に故あって自分の手元のネガや写真を全て処分した。今手元に残っているのはそれまでの数少ない欧州旅行の写真と、高校生以前の家族スナップの類だけだ。

 前の文章とダブルがここで言う自分の写真とは何なのか?もう一度再定義する。今手元にある、紙焼き、ネガ、ポジ、画像どれでも良い。とにかく手元にある写真を把握しよう(あくまでイメージでごそごそ出すわけではない(苦笑))
 その中から、まずお仕事で撮った写真があればそれを除く。次にお仕事でなくとも、「友達の結婚式の写真係」「旅先で撮って上げた友達の写真」とか他人からの依頼で撮った写真を除く。そして、アルバム等にある親や友達が撮ってくれた自分の写真などは、「自分が撮った写真」では無いのでこれを除いてみよう。これで、残った写真が
「誰かの何かの為でなく且つ、自分が撮った写真」であるはずである。
絶対量はどうだろう?もしくは手元にある先ほどのイメージした総量に対する残った写真の量の割合はどうだろうか?勿論先ほど敢えて「旅先で撮って上げた」と書いた様に旅先の友達の写真でも上げるためでなく「自分が撮りたくて撮った」ものは自分の写真と言える。

 何の目的でもなくただ自分がそれに興味が沸き撮った写真。そしてそれを消費せず(捨てたり、消さずにの意味)に画像なりネガなりでとどめている写真。一般の方と、写真を趣味だという方の一番の違いはこの写真の多寡にあると思う。そして、もし写真を趣味とする人間が他の人よりちょっぴり良いことがあるとすれば、作品の出来や、勝った負けたでなく、この「誰のためでもない自分の写真」がたくさんストックしていると言うところだと思う。

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 さて、そこまで突き詰めなくともとにかくカメラは売れているし写真は撮る。8ミリまで遡らなくてもビデオの時代になっても相当の年月が経っている。手のひらサイズのビデオもある。であるのに、静止画のカメラは大盛況である。

 私は、カメラ遊びから徐々に更正する中で2001年の頃から真面目にネガを整理する様になり、このブログを始めてからは撮影日毎にフォルダを作って整理する様にした。そして、以前の記事を書いた時にこの2001年以降のネガは私としてはちょっとまとまったお金を出して「自分の写真」だけはデジタルにした。従ってPC上で2001年以降はフォルダ毎に見られる。フォルダの場所と名前で長ったらしいが、日付とカメラレンズと場所がわかる様になった。また、このお散歩をするようになってからは、雨等で出られなかった週末は空フォルダを作って雨とか、出張とかフォルダ名で「穴が空いた理由」をわかるようにしている。(苦笑)

 最初は、私もどちらかというと自分の写真更正のために色々見返したり、或いは1年巡って同じ季節になった時に去年はどこがどうだったという備忘録的意味合いでフォルダ整理をしたものだ。ところが、上の様に思い立って過去の手持ちも合体し、このお散歩自体のものも徐々に溜まってくると当初想定外だった効果に改めて気がついた。私の記憶の補助というのであろうか。記憶を呼び起こす効果である。

 お散歩以降の写真は、ここにアップしてある様にどちらかと言えば葉っぱや、なんやかんや他愛ないものである。私自身も自分の経験や記憶を記録しておこうという意図が全く無い。今もない。(笑)害もなければ、何の役に立つわけでもない。自分がおやっと思ったものを、相棒と頼むその日のカメラとレンズの力を借りてどうにかこうにか写し込んでいる。その程度のものである。

 それで、時折PCでサムネイルで過去の画像をブラウジングしていると「何でこんなもの撮ったんだ」から始まり、、しかし、それを起点にその頃の事が色々思い浮かんでくる。一つが思い出されると芋ずる的に画像の順序をたどれば歩いたコースがよみがえる。そして何でこのくそ暑いコースを歩いたのか?から、むっとする感じや果ては、(本当は思い出したくもない)その時の仕事でのネックだったこと(苦笑)それをあれこれ歩きながら考えていたなあとか記憶が戻ってくるのである。動画であれば、リアルすぎてそこに写っている対象、場の記憶がどーっとよみがえってくるのかもしれないが、画像はそれを撮った自分からじわーっとその場以外のところまで記憶がよみがえる感じだ。特に、それにその時使ったカメラ、レンズ等の情報?が付加されると良くも悪くも気分で組み合わせを使っているので、それを選ぶときの自分を重ねるとよりリアルになってくる。(笑) これに気づいてから、私のこの毎週末馬鹿みたいに歩いて写真を撮る意味が自分の中でも少し変わった様な気がする。少なくとも、アート的にどうだとか余計なものはあまり考えなくなった。写真に写る中身や出来以前に、こうして写真を撮ることを継続すること、そしてそれを保存しておくことに大きな意味があるような気がした。

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  オリンパスイメージングの社長がどん底からはい上がる中間決算の席上で「パーソナルな記憶を残したいという人の欲求が無くならない以上、それの為のカメラ、デジカメは無くならない」と言った。当時、アナリスト等からもオリがカメラ事業を継続することに???が出ていた時期である。それに対してのプレゼンとして、反論としてはいかにも情緒的である。しかし、オリがこの欲求を満たすためにカメラを作っているし、作り続けるのだと言うなら私はオリに大賛成である。オリが、再三書くようにカメラ事業の原点により多くの大衆に、、と言うのをおいている事とも呼応すると思うからだ。

  脱線するが、オリがE-systemで目指している理想、35ミリ一眼レフの代替と言う時、その35ミリ一眼レフとは何?と言われれば間違いなくこれはAF一眼レフ以降肥大化したそれではなく、OMの思想である。小型軽量で撮影者に負担をかけないカメラだ。(フォーサーズHPの開発者自身他、PassionForBest等オリの開発陣がこの原点にOM以来の思想を語っているのはご存じの通りである。)

  そして、E-systemが目指す撮影者が使いやすい、機動性の高いDSLRは実は撮影者だけでなくその周りの人達にも「優しいシステムカメラ」では無いかと思う。特に中型機以上を各社はフルサイズ化する中で、オリがフォーサーズでこの思想を貫くことは意義があると思うのだ。
小型軽量は、写される人に威圧感を与えることもないし、重量を支えるために三脚を必要とする場面も少なくなるし、使用したとしても重たい三脚を使う場面も少なくなる。小さいフォーマットで画角でフルサイズの2倍稼げるのは近寄れない被写体を撮る時に有利である。またE-3で搭載される、フリーアングル液晶は手を伸ばして撮ることも出来れば、超ローアングルで腹這いになって草花を押しつぶすこともない。E-system自体がエコ重視で作られているのと同様この辺「小型軽量、フリーアングルLV等E-systemの技術は撮影者を楽にするだけでなく周囲の環境にも優しい」はこの時代だからこそ、アピールできるのではと思うのだ。

  話が拡散してしまったが、私はこういう写真のパーソナルな視点に立ち戻った時、そしてそういうパーソナルなものだからこそ、使用者、周囲の人、もの達の関係で画質だ何だという前に、受け入れられる大きさや、双方が重宝する機能という別の切り口があるのではと今回思った。
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by hiro_sakae | 2007-09-24 11:26 | 雑記諸々


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