人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2007年 11月 11日
E-3発売を前に、オリのカメラへのこだわりで与太話、
 ohkujiraTさんが、大阪のフェアのセミナーの記事をブログに載せられている。実際に足で踏んだりしたそうであるが、記事ではフラッシュを上げた状態のE-3にペットボトルで水をかけても大丈夫な写真がアップされている。改めて、E-3の強靱さを思い知った。またカットモデルの写真も出ていたが、ペンタ部から、接眼部の正に「硝子の塊」は圧巻だ。これだけでも、質量、大きさは他社中型機ボディと同じでも、ものの作り込みはやはりフラッグシップ機としての格の違いを感じる。

 この作り込み、カメラへのこだわりと言ったもので思い出すものがいくつかある。E-300発売当時の入門者向けセミナーなどもその一つだ。(フェアつながりというわけではないが、、笑)
E-3の発売を間近に控え、この辺の与太話を、、




 思い出す講座というのは、座学のみの半日コース。抽選での参加で、ズイコークラブ員は少し割り引いてもらって3000円で初級の一番初級の講座である。ズイコーデジタルアカデミーと言うことで括られているがE-300の発売に合わせて初心者向けに実技も伴わない半日コースという位置づけだった。

 そしてこの時の講師が斉藤巧一郎さんだった。オリンパスもこの初級講座を始めた頃でテキストはイメージングの方が作られたよう。パワーポイントにして150枚ぐらい。これをA4の紙に左側に何枚かパワーポイントその右側に何行か線を引いたメモ欄が作られたものをコピーしてホチキス止めにしたようなものがテキストだった。何となく簡素(笑)なイメージがしたが、中身は非常に濃いものだった。

 私的には、DSLRの使い方の基礎が学べるものとしてオリンパスがどういうものを用意するのかあれこれ考えていた。よく雑誌やムック本にある露出等の基本的なお話にカメラの簡単な仕組みがあってデジタル一眼特有の画像処理等が俯瞰的に述べられているのかなあとイメージしていたからだ。しかし、それは良い意味で裏切られた。

--------------------

 斉藤さん自身は、他社や他のいわゆるこういう初心者向けの講座を知っておられるのか、冒頭このテキストの配分内容を説明された時に、「オリンパスとしては、一眼レフを使ってこれから写真を趣味にしようかという人にはこれぐらいの知識を身につけて欲しいと言うことでしょうか」と笑いながら言った。恐らくその分量の多さと、構成がこの手の入門講座としてユニークだったのかも知れない。

 オリンパスが用意してくれたその講座のテキストの1/3は、先ほど書いたよくあるハウツーとはなんの関係もないカメラと写真の歴史だったからである。カメラオブスキュラのいわゆるカメラの原型から、今につながるカメラの発明、現像方法が変わり、フィルムが登場し金属製カメラの時代そして、フィルム一眼レフというカメラの歴史とそれに呼応するかのような写真の歴史を勉強するわけである。そしてその合間合間に斉藤さんが脱線しながらも色々話をされた。

 そして、この時の話はそれまでそういうことに興味があまり無かった(特に写真の歴史)私にとっては新鮮であった。例えば、芸術写真の時代。一般的には今では絵画を模倣していた時代として芸術的にはそれに続く新興写真等と比較して歴史的評価はあれど芸術的にはまだ写真本来の芸術性が開花していない時代と捉えられている。

 しかし、その時斉藤さんは初心者の方はこの頃の写真を一度勉強されたり参考にされたりした方がよいと例示の作品を元におっしゃられた。この頃の作品は新たな芸術性としては絵画の模倣かもしれないが、逆に言えばオーソドックスな絵画の構図技法に基づいて制作されているものが多く、初心者の方が構図を学ばれるのには良い題材が多いとのことだった。また、その後の新興写真時代に、我々がデジタルでたやすくできることになった処理技法の殆どがこの頃試されていることも知ったのだ。

 と言うことで、E-300と言う当時10万を切って話題になった廉価普及型のDSLRを出しつつも、そういう値段がああだこうだ関係なくフォーサーズ一眼を持ち写真の世界に入る人に入門時に覚えて欲しいこととして、これらに相当の時間を割くべきとあれこれ(手作りのような)テキストを作ったオリンパスの姿勢に共感したものである。

-----------------

 余談ついでに、オリンパスのOM時代は開発陣に米谷氏以外にも写真好きの方が多いというのが、過去の雑誌対談等で語られている。最近のE-system関係の人を見てもカメラ、写真がすきなんだろうなあと感じさせる事がある。そして、関連する過去の記事では、アサヒカメラの「ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡」での当時既にオリンパスの顧問になっていた下山氏、米谷氏、そしてカメラマンの赤城氏のインタビュー記事を思い出す。読まれた方はいるだろうか?

 インタビュー記事自体は、OMが無くなる直前とも言える1999年の記事である。恐らく今はデジタルカメラの時代になったので無くなっていることだろう。しかし、この頃まで米谷氏が初代校長となって創立?した写真学校なるものが開発部にはあった。これは、オリンパスに入社してこの開発部に入れば全員まず自腹でカメラも買う。この自分の月給を使って買うと言うところが大切なようだ。そしてこのカメラを元に写真を学ぶわけだ。そして、卒業作品は自分でモノクロ全倍に引き延ばすということである。

 当時のインタビュー記事で、カメラマンの赤城氏も「それは、すごい。それだけの経験を積むと自分で作るカメラが機能だけでは終わらない。使い勝手とか感触とか、こだわりのカメラが出来るわけだ」と述べられている。また、ここには書いていないがこの写真を学び、現像、全倍引き伸ばしまでを教える講師というのは米谷氏がいる時は米谷氏も指導していたことは勿論その後も外部講師を招くと言うよりもっぱら先輩エンジニアが指導役に当たったようである。

 オリンパスのカメラが持つ個性、人格を作り上げていったキーパーソンは桜井氏→米谷氏とつながるわけであるが、この二人が揃ってアマチュア写真家としても活躍された方だった。しかし、写真を愛するものが同時に設計者である、あるいはカメラ設計をするものは写真を学ぶべきであるという考えは昔はオリンパスに限ったことでは無かった。中判で有名なマミヤも間宮氏が納得のいくカメラを作るためにマミヤシックスを作ったわけだし、自分の善三郎の名を付けてハッセルに負けない中判を目指したゼンザブロニカなどもそうだ。

 例えばE-systemやOMの今に続く一眼レフを立ち上げたペンタックス。このペンタックスにも小倉氏の「国産カメラ開発物語」に面白い話がある。

------------------------

 ペンタックスの一眼レフスタート「アサヒフレックス」に関わった当時「ペンタックストリオ」と言われた、松本社長、鈴木専務、吉田専務の内、鈴木氏、吉田氏が小西六(コニカ)の出身だというのはご存じだろうか。そして、この戦前の小西六には粋な制度があった。まず社内の若手エンジニアに青年学校がある。講師も青年学校卒業生である。そして、この青年学校の1番と2番は会社が全額負担で写真専門学校に通えるという制度があったそうだ。そして、鈴木氏、吉田氏は当然この写真専門学校に通った人達。そして当時は戦時体制でもありレンズ生産に携わっていた両氏が戦後松本氏とあの一眼レフで見事に才能を開花させるわけだ。

 ちなみに、このアサヒフレックスと、オリンパスをつなぐ面白い話がここには出ている。当時のペンタックスにはアサヒフレックスの試作品でいちいちダイキャストボディを作るお金などない。実は、この試作ボディは二台分のオリンパス35ボディーを中央から少しはずしたところで切断し、その中間にミラーボックスを挿入して作成したとのことだ。確かにシャッターボタンや巻き上げノブはオリンパス35とそっくりである(と言うか試作ではそのまま流用したのだろう)

 何れにせよ、オリンパスはDSLRになりマウント、フォーマット等を一新しいちから全て作り直すという事を始めた。先人が知恵と工夫となによりも写真、カメラへの情熱でその礎をつくりあげたように、オリンパスのこのフォーサーズ規格の立ち上げにもそういうスピリッツが感じられてきたのは嬉しいことだ。デジタルの時代にはこういう浪花節が通じないのかも知れないが(苦笑)
E-3。性能だけでは語れない、somethingが感じられるのか、楽しみである。

 

 

by hiro_sakae | 2007-11-11 08:45 | その他オリ絡み


<< オリンパス的シェア20%への道      オリンパスR&Dトップの記事から >>